就職しない!働かない!被雇用者にならない! 自由な人生の始まり。
2020/03/03
私は、前回の東京オリンピックの年(1964年)
下町の 個人商店の長男として生まれた。
当時は、子どもが親のお店を手伝うのは、当たり前だったので、
私自身は 8歳、小学2年生のときから、親父の店の手伝いをしていた。
時に 1972年(昭和47年)
一番下の妹が生まれたので、お店の手伝いの合間に、
乳母車に乗せて、子守もしていた。
30代のころ 「本当に独身?」
と言われるくらい、赤ちゃんをあやすのがうまかったのは、
多分、このときの経験から、かもしれない。
その後、社会人になって、長らく、就職しては働いていたが、
どこの組織に属していても、就職したその日から
「どうも 俺の性分に合わない。」
という 違和感を感じずには、いられなかった。
運転が好きだから、タクシー運転手になった。
働いて 手ごたえを感じたのは、その最初の数ヶ月くらいかもしれない。
最終的には、自分は
他人に使われ、命令され、働いて、安い給料をもらう。
そんな ライフスタイルなんて 完全に合わない人間だ、
と気付いた。
今でもずっと、納得いかない 冷酷な現実は、
上司の失敗は 自分に降りかかり、自分の失敗は 自己責任で追いかけられる。
責任ばかり重くなり、サイフばかりが、軽くなる・・・
そんな ロクでもねえものだった。
冗談じゃねえ!
やってられるか!
本音だった。
尊敬できない上司に 頭を下げ、
どこの組織にもいる、遅刻にうるさい連中が
始業時刻の 10分前くらいには
着替えて 職場の所定の位置にいないと、
「やる気あんのか?」
みたいな、雰囲気だし、口に出して、そう言ってきた輩もいた。
毎朝、早めに出勤するから、
疲れてようが、目覚ましで起きて 動き出す。
労働基準法なんて、一応、あるだけじゃないか?
そのくせ、たまに仕事が、早く終わったときは、
早く退社できるか?
といえば、そんなことは、ない。
平成時代の後半あたり、
「サービス残業」なる言葉が 出てきたが、
残業時間にカウントしない、余計に働いている時間は、
たまに 仕事が早く終わったから、 そのときくらいは、
早く退社したとしても、トータルでは
労働基準法の規定よりも、はるかに余計に、
会社にいることになる。
あなたがもし、通勤時間が 片道1時間だったとすれば、往復2時間。
出勤時刻 ギリギリだと やる気を疑われるのと、
時々、飛び込み自殺や ポイント、電気回路の故障などで、
電車が遅れることもあるから、
それを見越して、おそらく
30分くらいは、早めに自宅を出発しているだろう。
労働基準法をきちんと守って、8時間労働、休憩 1時間だったとしても
8+ 1 + 2 + 1 =12
1日24時間のうち、12時間も、
拘束されることになる。
自分の人生ながら、自分の自由の効かない、拘束時間なのだ。
こんな話をすると
露骨に 同僚は イヤな顔をして、
「おめえ、何言ってるの? 仕事 やる気ないのか?」
とか、先輩の中には、胸倉をつかんでくる輩すら、いた。
もちろん、うまく やり過ごしてきたが、
とにかく、会社勤めは、
こんな 不毛な人間関係に とらわれ、
時間拘束されるので、どうにも イヤで しかたなかった。
海外を知ると、この
遅刻にやたら厳しく、終業時刻がダラダラな日本の組織
やはり異様に感じるのだが、
私だけではなかった。
会社を辞めたとき、親父は
「やっぱり、俺の子だな」
と言って、理解してくれた。
親父も、昭和時代。
日本が敗戦後、まだ戦後処理が終わって、ようやく
国家が成長してきたころ、脱サラして、
自分の店を構えた人間だったので、
宮仕え、被雇用者の 不自由さと
やりがいの無さを、痛感していたのだ。
(中略)
いよいよ 元号も変わった。
もはや、令和は
「就職したり、どこかでコキ使われて働くのを 0にすることが 和の精神」
という時代だと思う。
人生は 時間の積み重ね。
自分の自由にできる時間を、大切にしない、
旧態依然とした 昭和、平成時代の 働き方が、
いよいよ 崩壊してくる時代だ。
嫌いな仕事を、イヤイヤやって、激安収入に甘んじる時代の終焉。
日本の衰退は、免れないが、
こういう時代だからこそ、
スマートに 人生防衛をしながら、
自分の人生を HAPPY にしていこう!
そんなお話を、していきます。
こう、ご期待!!